「大腸よ、そなたは美しい」

大腸内視鏡検査 〜恐怖〜】

ぼくは本気で嫌だった。

これは多くの同意を得られると思う。

ただ、これから大腸内視鏡検査を受ける人に声を大にして伝えたい。

 

大丈夫だ。

思った以上に大したことない。

検査を受けている約20分間、多少の背徳感があるくらいだ。

先生に身を委ねよう。

 

【2017年 8月22日 火曜日 〜運命の日〜】

初めての大腸内視鏡検査。

恥ずかしいことにとてもビビっていた。

「座薬を入れましょう」と医師がいう程の高熱が出ても頑なに拒否をし続けてきた27年間。

いやだって、いくら毎日内視鏡なんかよりも太いものを出しているといっても27年間一方通行の道だ。

お尻の穴に異物を入れるという恐怖は拭いきれなかった。

 

【検査を受ける準備 〜戦いはすでに始まっている〜】

検査を受ける前に飲み続ける下剤。

なにが悲しくて下剤を2時間近くも飲み続けないといけないのか。

考えたら負けだ。無心で飲もう。

液体には変なツブツブが浮いている。
居酒屋さんなら「すみませーん!」と交換を要求しても良いレベルだ。
でも大丈夫。それがデフォルトなので飲み続けよう。

5-6回程お腹を下したら、透明な排泄物しか出なくなる。

そこまで来たら、看護師さんにチェックして貰う。

なるべく「見られても良い」と思える婦長さん的な人を選ぼう。

無事合格を貰ったら検査室へと移動する。

 

【検査室 〜ようこそ、選ばれし者〜】

お尻側に穴が空いた半ズボンに着替えたら準備完了だ。

ベットに寝かされ痛め止めジェルを穴に塗りたくられる。

もちろん、中にも。

そしてすぐに中指くらいの太さがある管を挿入される。

リアルに「ズボッ」って感じがあった。

こうして、あっけなくバージンを無事卒業した。

 

【検査中 〜大腸よ、そなたは美しい〜】

検査中、自分の大腸を先生と一緒にモニターで見た。

先生1「美しい大腸してますね」

ぼく「え、ありがとうございます…」

先生2「そんなこと言われても困るわよね笑」

ぼく「(ごもっとも)」

 

ちなみに大腸の内側をカメラが侵入していく過程は時折痛い。

先生1「あー、ここちょっと痛いかも。我慢してね(グリグリ)」

ぼく「い、痛いっす...」

先生2「大丈夫よー、はい息吐いて、ふー。」

ぼく「ふー」

こんなやり取りが3回くらい繰り返される。

 

先生1「大腸は普段閉じているので、空気を入れて開きながら奥まで入れていきます」

ぼく「はい」

先生1「ですので、お腹が空気でパンパンに張ってしまうことがあるので、おならは我慢せずにしてくだいねー」

ぼく「はい」

先生2「我慢すると大変なことになっちゃうからね笑」

ぼく「でも先生、入口って内視鏡によって栓されてますよね?その状態でおならって出るんですか…?」

先生1「...頑張れば出ます!」

先生2「まあ、我慢しないでってことだから!」

ぼく「(そうなのか)」

 

そして、なぜ女医さんしかいないのか。

何故なのか。

これは最大の疑問でしかない。

 

【検査することになったキッカケ 〜急性虫垂炎〜】

そもそも、ことの始まりは2017年6月末に急性虫垂炎になったからだ。

腹痛のため病院に行くと、触診→血液検査→CT検査を受け「急性虫垂炎」を宣告され、即日入院。

 

(「ちょ、待てよ!」とキムタク風に心の中で呟いたのは秘密である)

 

外科手術でサクッと取ってしまうか、点滴による抗生物質投与で炎症を抑えるかの2択を迫られる。

迷わず点滴を選択。手術は怖い。

理由は、麻酔をして尿道に管を入れられるのが嫌だから。

友人から聞いた話しでは、尿道から管を抜いた後の排泄行為がこの世のものとは思えないほどの痛みらしい。

入院期間中は、腸の働きを休ませるために食事禁止。

点滴を24時間された状態で3泊4日過ごした。

日本では初めての入院になる。

余談になるが、人生初の入院は2015年1月にフランスに留学していたときだ。

フランスに訪れる前に訪れていたタンザニアで世にも珍しい病原菌に感染したらしい。

そして発症したのがフランスであった。

右足がパンパンに腫れて、痛くて歩けなかった。

病院に行くと約10日間ほど入院することになった。

ちなみにタンザニアではキリマンジャロに登った。

人生初登山がキリマンジャロ
そして初入院がパリ。

響きだけはカッコいい。

 

【入院生活事情 〜日本とフランスの違い〜】

あくまで僕が経験した日本の入院生活とパリでの入院生活の大きな違いである。

・食事

日本での病院食は、3日以上なにも食べていない状態からの回復食。

つまり、流動食や液体しかなかったので、比較にはならないかもしれない。

しかし、あえて言おう。フランスの病院食は美味しかった。

基本的に2つのメニューから前菜からデザートまで好きなものを選ぶことが出来る。(例)パンは全粒粉orクロワッサン。メインはうさぎor牛肉…etc

そして、料理を運んで来てくれる人も高級レストラン並のタキシード姿で運んで来てくれる。

部屋に入るときは礼儀正しく深々とお辞儀をし、時にはクルッと回ってから入室してくるサービスまであった。なんとも気品に溢れた食事の時間だったといまでも思う。

 

・部屋割り

一般的に日本では4人部屋がデフォルトで、アップグレードを図れるば個室になる。

ぼくも日本で入院した歳は4人部屋だった。

しかし、やっぱり4人部屋はストレスが溜まる。

患者だった身として思うのは、病院側は少なからず、年齢層や病気のレベル感を合わせた上で部屋割りを組んだ方が良い。

例えば、急性虫垂炎の患者と大腸癌患者が同室というのは双方にとってあまり良いとはいえない。

ちなみに、フランスは最初から個室しか選択出来なかった。

しかもバルコニー付きの部屋で、窓からエッフェル塔が遠くに見ることが出来た。

たまたまかもしれないが、だいぶリッチな部屋だった。
※僕が入院した病院がそういう仕様なのかもしれない。

もちろん1日の入院金額もべらぼうに高く、もし海外保険に入っていなかったら大変なことになっていた…。ありがとうAIU。まじで。

 

・ボイコット

2015年1月にフランス パリでなにが起きたか覚えている人はいるだろうか。

いまでは悲しいことにテロが日常的にあちらこちらで起きてしまっている。

しかし当時、風刺週刊誌を発行しているシャルリー・エブド襲撃事件は非常に衝撃的なニュースであったことは記憶に新しいかと思う。

まさににその時、ぼくはフランス パリで入院中していた。

驚くべきは事件が起きた翌日に

「明日から私たちはボイコットすることが決まったんだけど、あなた退院出来る?ほら、テロで色々大変でしょ?働いてる場合じゃないのよ」と看護師さんから言われたことだ。

いや、ちょっと待て。

・テロで大変→わかる。

・働いている場合じゃない→まあわかる。

・ボイコット?退院出来る?→ごめんちょっとわからない。

先にも記した通り、当時ぼくは

【世にも珍しい病原菌に感染している右足がパンパンに腫れて、痛くて歩けない患者】だった。

退院なんか出来るわけがない。歩けないのだ。

Do you understand?

退院することは出来ないと伝えた。

意見が言えない日本人?

大丈夫だ。生死がかかればちゃんとNOくらい言える。

結局、病院側も渋々納得してくれた。

しかしボイコットは起きたらしく、病院の中はとても静かであった。

これは予想でしかないが、たぶんほんとにやばそうな患者だけ残して、看護師も必要最低限の人数でまわしていたのではないかと推測する。

緊急手術が必要になったりしなくてほんとに良かった...。

余談だが、毎日点滴を替えに来る看護師もボイコット時は若い2人組で、いかにも研修中な感じだった。

一回だけ点滴の替える手順を間違えたらしくベットが血で染まったこともあった。

うまく説明出来ないのだが、血管と点滴を繋ぐチューブを一時切り離して付け替える際に、なにかを間違えて僕の鼓動と共に血液が吹き出すという事案だった。(ちなみに研修医らしき人達は「やべwやべw」と笑っていた笑)

ちなみに、この世にも珍しい病原菌の正体は黄色ブドウ球菌というどこにでもいる菌の珍しいやつだということが、発症から約1年半経った日本で特定された。このことについてはまた後日。

 

大腸内視鏡検査はオススメ 〜気になる費用〜】

途中、だいぶ話しが脱線したが、大丈夫だ、脱糞はしていない。

とにかく、大腸内視鏡検査にビビっている人がこれ読んで少しでも不安が和らぐことを望む。

 そして気になる費用は6,000円でお釣りが来るくらい。

これで大腸癌を始めとした、大腸のあらゆる病気を検査出来るのであれば安いものだ。

第二の脳と言われ、腸内環境が大切だと言われる昨今、なにか気になることがある人はぜひとも受けてみることをオススメする。

 

最後に、自分の大腸を見た感想を先生に伝えた。

ぼく「なんかほっぺたの内側みたいですね」

先生1「ほっぺたの内側ですか…?」

先生2「うーん…。」

残念ながら同意は得られなかった。

しかし、これ読んでくれている人の中に同意してくれる人がいるはずだ。

ぜひコメントをお待ちしておりますm(_ _)m

 

【追伸】

最後に...検査の時に1番痛かったのは最後に内視鏡を抜く時。

抜く前にクルッとされる。ちょっと説明が出来ないのだけど、なんかクルッとされる。

 

おわり。

運動会とゴミ拾いと27歳。

 

中学3年の運動会、結果発表の時に僕は泣いていた。

 

定期的に襲ってくる「昔の記憶フラッシュバックタイム」(と、僕は呼んでいる)

今回は近くの小学校の運動会がトリガーとなって襲ってきた。

 

本日5月27日は、記念すべき第1回目となるゴミ拾い活動@武蔵小山だった 。

その名も「CLEAN&GRIL」

街のゴミ拾い活動をして、その後みんなでBBQをする【楽しい社会貢献活動】である。

 

「なんとも素晴らしい活動なんだ」

 

そんな自己満足たっぷりに帰路に着いていると、妙な胸騒ぎを覚えた。

 

「CLEAN&GRIL」 と同日の今日、近くの小学校では運動会が行われていた。

僕の自宅から小学校までの距離が異常に近い。

徒歩30秒と言っても過言ではない程、近い。

目と鼻の先だ。

 

活気のある声や、学年での出し物/競技の際に使われてくる音楽。

その音楽は、今の流行りを反映したものや先生達の好みが反映したものが流れていた。

 

妙な胸騒ぎを覚えたのは、27歳の僕には

もう2度とは戻れない時間だとわかっていたからだ。

 

帰宅した際にはちょうど、高学年によるリレー競走だった。

ものすごく盛り上がっていた。

そして、記憶が蘇った。

 

今でも鮮明に覚えているのは、中学3年の時のリレー競走。

リレー選手だった僕は、意気込んでいた。

その年は珍しく点数が拮抗しており、最終のリレー競走で

優勝が決まるという年だったと記憶している。

 

バトンを受け取って走り出した僕は、転んだ。

なぜ、あの時、あのタイミングで、転んだのか。

いまでも理解は、出来ない。(転ぶはずがないと思っている)

しかし、事実として僕は転んだ。

そして、リレー競走では負けた。

 

リレー競走によって、優勝が決まるはずだったので負けることは決まっていた。

 

「僕のせいで、クラスは負けた」

 

恥ずかしさなのか、悔しさなのか、涙が止まらなかった。

慰めてくれる友人がいた。

「胸を張れ」と。

 

結果発表で点数を読み上げられる。

結果は優勝だった。

なにが起きたのかわからないが、優勝していた。

悔し涙は、嬉し涙と変わっていた。

 

それから1週間後、点数係の計算ミスで

本当は優勝していないことが判明され

優勝は取り下げとなった。

 

やっぱり優勝していなかった。

しかし、あの臨場感ある場で「優勝の喜び」を経験出来たのは

いまでも、いや一生忘れることの出来ない思い出となった。

 

人に無条件で応援されることは、相手に感動を与える。

運動会は、もちろん子供達の為である。

しかしそれと同時に 「そんなこともあったよね」

 と、話しのネタにする大人たちの為でもあるのかな。

 

「CLEAN&GRIL」も地域の人から無条件で応援され

相手になにかしらの感動を与え、自分らの「そんなこともあったよね」

と、話しのネタにする様に、大切に丁寧に継続していきたい。

 

第2回「CLEAN&GRILL」 は6月24日(土)9:30~@武蔵小山

武蔵小山周辺に住んでいて興味のある人は、お声掛け下さい。

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過去と未来とローストビーフ。

【雨の降る公園】
晩秋の雨の日の公園に、傘をさして携帯を弄る男の人がいた。
22時をまわり、お世辞にも夜の適切な過ごし方とは言い難い。
こういう人を見ると、ときどきどうしようもなく妄想が広がってしまう。


なぜ、彼は雨が降る寒い夜の公園で携帯を弄っているのか。

・理由も無く弄っている
・家に帰るのが億劫だ
・雨の降る夜の公園が好き
・恋人との待ち合わせ
...etc

あ、もしかすると、ポケモンGOかもしれない。
いずれにせよ、彼には「おかえり」と言ってくれる家族がいることを願う。


【顔馴染みが持つ魔力】

別に「おかえり」に限った話ではないが

【一定の基準を超えた人×挨拶】
が持つ効力はとても絶大なのではないかと、思っている。

現在、地元の西小山・武蔵小山武蔵小山ネットワーク(通称:MKN)という
自転車で10分以内の距離に住む平均年齢20代後半の若者が30人くらいのコミュニティを作って活動している。

自転車で10分なので、最寄り駅も被っていることが多い。

朝の通勤時間帯に被ったり、帰宅ラッシュに被ったりすることも稀にある。

気心の知れたメンバーに出会うと、なんだろうか、疲れが吹っ飛ぶ感覚を得られる。
自分は気がついていなくても、向こうから声を掛けてくれると「おっ!」となる。

最近、この「おっ!」という感覚がとても大切な気がしている。



【期待値】
「おっ!」という感覚は「見た目が汚い、大して美味しそうではないお店に入ってみたら、想像以上に美味しく、しかも安かった」という感覚に近いと思っている。

上記の経験をお持ちの人はわかると思うが、期待値が低いと、その期待値を超えるのは容易い。

期待値が1だとすると、2以上であれば「おっ!」となるのである。

「なんだ、結構やるじゃねえか」と。

しかし、ミシュラン3星で予約も取れにくく、しかも値段も高めのレストランだと確かに美味しいことは間違いないのだが、なにか些細なことを気にしてしまったり、「この値段だからこのクオリティは当たり前かな」と思ってしまうことがある様に、期待値が50000だとすると、50000以上にならないと「おっ!」とはなりにくい。


その点、帰り道で気心の知れた友人に出会い声を掛けて貰うことは、全く予期せぬ出来事であるので、「おっ!」となりやすい。
そして、この期待値を超えた時に、人は抱えていた悩みや仕事の疲れなどとは別のベクトルに意識が向くために、疲れが吹っ飛ぶ感覚を得られるのではないだろうか。


【ローストビーフと5年間】
5年間、会社近くのお弁当屋さんでお昼ご飯を購入していた人の話を例にとってみる。

退社する5日前に「辞めることになりました。今までお世話になりました。」と話をしたらしい。
社内では「5年間も通ったのだから、最後になにかオマケがあるのではないか。」という話が密かに話題になっていた。

最終日、ローストビーフをプレゼントされていた。

しかも、丁寧に紙の包装に包んである状態で。
いくら、5年間通い詰めたとはいえ、ここまでのことは誰も想像していなかった。
せいぜい、鶏のから揚げが付いてくるくらいのイメージであった。

完全に、期待値を超えられたわけである。

大都会の小さなお弁当屋さんが、粋なはからいを見せてくれたこの日の出来事は、きっと、これかも記憶に残り続けるはずだ。
少なくとも  ー当事者ではないがー  私の記憶には残り続ける。
これも昔は存在したであろうお店と常連さんのコミュニティのカタチかもしれないと思いつつ。

短い間ではあったが、大きな感謝と少しの寂しさと共に、ローストビーフを噛みしめた。
11月29日が”いい肉”の日なので、ローストビーフは前日の売れ残りというオチでは無いことを心から祈って。 

消えゆく銭湯の思い出と農業と僕。

【11月27日(日)】
昭和40年代から木造の建物のまま地元の人達の汗を流し続けてきた「冨士の湯」は役目を終えた。
オリンピックに向けた道路拡張工事のため、立ち退きを命じられていたためである。
都内有数の内装の綺麗さや、吹き抜けの高い天井が特徴的な、地元に愛されていた銭湯であった。
昭和40年代からというのは、「現在の店主の家族が先代から引き継いだ」ということで記録に残っているものであり、実際はもっと昔から人々の汗を流していたのであろう。


【野球と銭湯】
地元の人間である私は、冨士の湯には幼少の頃から時々お世話になっていた。
銭湯好きの母親に連れられて行ったことや、小・中学生時代に入っていた地元野球チームの練習や試合帰りに仲間と一緒に行ったのも記憶に新しい。
小・中学生時代に行く銭湯には、なにかちょっとだけ「特別」な気持ちを抱いていた。
大人の監視の目から解放され、子供同士の”はだかのつきあい”をしながら、他愛の無い話をする。
冨士の湯の温度は、少し熱めに設定されていたので子供達にとって長時間入れるわけではない。

しかし本当の楽しみは、そう、湯から出た後に待っている。

小銭を握りしめて買うコーヒー牛乳や、ラムネ。
私の中では、レモリアという飲み物がお気に入りだったが、いまはもう見かけることはない。
番頭さんがテレビを見ている待合所の椅子に座りながら、飲み物を片手にグダグダと過ごす。
そう言えば、中学生の頃に友達が
「甲子園でピンチになった時にマウンド上に集まってるじゃん?あれって結構くだらないことが多いみたいだぞ」
と言っていた。
その話を聞いた後、自分達の試合でピンチの時に集まって
「今日、勝ったら銭湯行こうぜ」
とくだらないことを言うためだけに集まっていた。
まあ、結局負けても行っていたのだけども。


【幼少期の思い出】
母親に連れられて銭湯に行ってたのは記憶しているのは3,4歳の頃だったと思う。
少なくとも小学校にあがる前である。
今思うと、当時の私にとって銭湯とは
「見知らぬおじさん、おばさん達と出会う場」
だったのかもしれない。
1つ、今でも鮮明に覚えている話をしよう。
早熟だった私は、実年齢に比べて縦にも横にも大きかった。
そのコロコロとしていた体型と、何にでも興味を持つ性格からか
たまたまテレビでやっていた大相撲を食い入るように見ていたのだと思う。
すると見知らぬおじさんが声を掛けてきた。
「お、坊主、相撲に興味があるのか。坊主くらいの体格だったら、相撲部屋に入ったらもしかしたら相撲取りになれるかもしれねえな。相撲取りはな、儲かるぞ〜。」
その内容に対してなんて返事をしたのかは覚えてないが
一緒にいた母親が「野球やってるもんね」とかなんとか言って「うん」と答えた気がする。


【おばさま方の銭湯コミュニティ】
あれから20年以上経つが、母親は相変わらず銭湯好きだ。
もちろん家にお風呂はあるが、なにかに理由を付けて銭湯に通う。
その理由の1つに「銭湯仲間」がいることだと母親は言う。いわゆる、常連さんというやつだ。
母親の、いや、おばさま方のコミュニケーション能力の高さには時々感服してしまうことがある。
どうやったら、銭湯で見ず知らずの人々とよく顔を合わせるからと言って仲良くなれるだろうか。
それを難なくやって退けるのが、おばさま方の凄いところだ。
銭湯という垣根を超えて、一緒に出掛けたり、忘年会をする仲にもなっていると話を聞く。
ここまでくるともう、頭が上がらない。


【農業と銭湯と学びの場】
さて、私は農業を専門的に学び、農業系の仕事に就いている。
特に、農業が持つコミュニティとしての要素は最も興味関心があるものの1つである。
そして、銭湯と農業の共通点として「世代を超えたコミュニケーションが取れる」ことだと思う。
現在はもちろん、昔も農業は基本的に年配の方から教えて貰う構図であったことは間違いない。
むしろ、そうやって年配の方との付き合い方や言葉遣い、礼儀、挨拶を始めとする社会的なマナーを教わる場だったのかもしれない。
農業を教えて貰うことを目的としなくても、自分より遥かに人生を経験している方とコミュニケーションを取ることは決して無駄ではない。
しかし昨今、核家族化が進み世代を超えたコミュニケーションが取り辛くなった。
この問題を解消するのに役に立つだろう1つの手段は、農業だと私は思っている。
そして事実として、江戸の人々が銭湯で湯に入るときには、ほかの客に湯が飛び散るのを気遣って
「田舎者でござい、冷者でござい、御免なさいといひ……」と、銭湯に入るときに、
他の客に対する気遣いが式亭三馬滑稽本浮世風呂』に記されている。
江戸の人びとは、街中で暮らすマナーを銭湯で知り、学んでいた。

また、農作業は昔、地域の人々の助け合いで成り立っていた部分がある。
特に、日本人の主食であるお米の田植えの時期や、収穫時期などはその最たるものである。
「今日はOOさん宅のやつを手伝って、明日からは△△さん宅ね!」
という風に、みんなで協力することで仕事の効率化や地域の結束を強めていた。
上記の農業を通したコミュニケーションや、コミュニティの要素と
「幼少期に銭湯で声を掛けてきた見知らぬおじさん」や「おばさま方の銭湯仲間」
などの銭湯で繰り広げられるコミュニケーションや、コミュニティは親和性を感じる。


【感謝】
良くも悪くも近代化によって失われてしまった農業が持つであろうコミュニティの在り方と
オリンピックによって惜しまれつつその役目を終えることになった冨士の湯に感謝しながら
長い間みんなの身体を暖めていたお湯の暖かさを布団に染み込ませることの出来た、日曜日の夜。
地元に愛された冨士の湯、長い間ご苦労様でした。